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女友達と暮らすこと:『阿佐ヶ谷姉妹ののほほん二人暮らし』と『女ふたり、暮らしています。』

阿佐ヶ谷姉妹のエッセイは、ひたすらに「ケの日」で人生だった

私はNHKを解約してしまっているので観られないのだけど、阿佐ヶ谷姉妹のエッセイを原作としたドラマが制作されたそうですな。

(たぶんドラマの宣伝のためだと思うのだけど、)その原作となったエッセイがKindle Unlimitedの対象になっていたので読んでみた。
姉のエリコさんと妹のみほさんが、順番に日常のことを綴っている。

二人は実際には姉妹ではなくて、阿佐ヶ谷のとあるお店の店員さんに「二人は似てるから、『阿佐ヶ谷姉妹』という名前で何かやったらいいのに」と言われたことをきっかけにコンビで仕事をし始めた、というのもこの本で初めて知った。

NHKばかりかそもそもテレビをほとんど観ない(すごく気になる番組だけTVerで観て、あとは配信のばっかり観てる)私なので、阿佐ヶ谷姉妹にもぼんやりしたイメージしかなかったのだけれど、この二人が人気になる世の中、結構いいよなあ、と思う。


このエッセイのいいところは、きっと阿佐ヶ谷姉妹が人気である理由と同じ。
生活に、根ざしに根ざしているところ。
すごく「今」っぽい、ですよね。

ご近所さんにおすそ分けしてもらう餃子がおそろしくおいしいとか、理想的なごみ箱ってなかなか売ってないとか、ちょうどいい白髪染めを探すとか。そういう話が並んでいる。

バブルの時代、クリスマスにいいホテルで夜景を観ながらメイク・ラブしていた人たちが読んだら、「地味すぎ!」って思うかもしれない内容だ。だけどその「地味」なケの日々にも、思わず笑っちゃうような、泣いちゃうような、いろんな出来事が起こっている。

私が特に好きだったエピソードは、阿佐ヶ谷にある中華定食屋さんの「朝陽(ちょうよう)」のもの。もともとご夫婦で営んでいたそのお店の妻さんが亡くなられて、夫さんが妻さんの持ち物を道行く人におすそ分けしていた。飄々としているように見えても夫さんのひげはボウボウで、放っておけなかった阿佐ヶ谷姉妹の二人は改めてお店を訪問する。すると夫さんは、それまで二人で過ごしてきた人生の話をしてくれて…という話。
お店の人にも、お店を訪ねる人にも、それぞれの人生があって歴史があるんだよな、それが交差して街ができてるんだな、としんみり。顔なじみの店って私は持っていないけれど、個人的な話をした店員さんのことは、やっぱり長い間覚えている。

「人生は美しいアルバムじゃない 撮れなかった写真さ」と宮本浩次氏も歌っているように(@明日以外すべて燃やせ)、人生も、その人となりも、一つ一つは取るに足らないような「生活」からできているなあ…としみじみ思ったのであった。


同性同士だろうと似たもの同士だろうと、ともに暮らす以上はすり合わせを避けては通れない

読後、少し前に読んだ、同じく女性二人暮らしの生活を描いた本『女ふたり、暮らしています』もよかったよなーと思い出した。こちらは、韓国の女性お二人による、こちらもリレー形式のエッセイ。

書き手は、ポッドキャストやラジオ番組で話すこと等をなりわいとしていて、片付けが得意なキム・ハナさんと、元ファッションエディターで現在はYouTubeチャンネル運営等をしており、料理が得意なファン・ソヌさん。

阿佐ヶ谷姉妹本と共通してるのは、基本的に楽しい生活が描かれつつも「どんなに親しくても共通点が多くても、やっぱり衝突することもある。それをどうすり合わせていったか?」についてもちゃんと書いてある、ということ。

〔前略〕人もそれぞれ異なる気候帯と文化を持つ外国みたいなもので、誰かと一緒に過ごすことは外国を旅行するような興味深い経験になる。〔中略〕互いの違いを尊重する旅行者としての礼儀を尽くせば、私が持ち合わせていない美しさを目にすることができる。

(『女ふたり、暮らしています』のソヌさん執筆パートより引用)


そう、大事なのは…「尊重」だ!

阿佐ヶ谷姉妹は、寝るときの陣地の大小やいびきをめぐって、『女ふたり…』のお二人は、それぞれが持ち寄ったティファールのどちらを処分するかをめぐって、冷たかったり熱かったりする戦いを繰り広げる。些細なことに思えるけど、共同生活に決定的なひびを入れるのは、こういうことだったりするよなあ。

しかし最終的にはどちらの二人組も、「誰かが我慢すること」じゃなく、「折り合う地点を見つけること」で、よりよい関係をつくっていった。

〔前略〕一緒に暮らして二年ほどが過ぎた今、私たちはほとんどけんかしなくなった。この間にふたりが少しずつ断ち切ったのは、相手をコントロールしようという気持ちだ。代わりに、ふたりが共に望む家の姿と状態、そして、各自が確保することを望むプライベート空間についてきちんと話し合い、それを一緒に作り上げるために努力している。

 相手を変えようとすることは争いを生むだけで、そもそもそれは不可能なことだ。ふたり一緒に同じ目標のために努力すること、それがまさに団体生活に必要なチームスピリットだ。

(『女ふたり、暮らしています』のハナさん執筆パートより引用)


話し合って互いの希望をすり合わせることとか、相手に「してあげてる」と思って当たり前に見返りを期待するのをやめることとかは、人間関係を維持するために必要な、普遍的なことだよね。

夫婦や血縁関係以外の共同生活が、低く見られているのはなぜなのか?


前にnoteで『自分に名付ける』という本のレビューを書いて、その中でも詳しく述べたんだけど、私は夫婦や血縁関係のみが正式に「家族」としてカウントされ、その間にある気持ちのみが「至上の愛」だって持ち上げられる今の日本の状況が、好きじゃない。

note.com


夫婦や血縁関係じゃなくたって、話し合って相手に寄り添うことはできるし、相手を愛することはできる。

例えば、『阿佐ヶ谷姉妹ののほほん二人暮らし』でみほさんが書いてた以下のエピソードとか、もう愛でしかないなって思うんですよ。

 ある時も、みほシャットダウン中(けそ注:みほさんが1人になりたがり、布団にこもる状態を「みほシャットダウン」と呼んでいる)だと話せなくて寂しいみたいな事を言うので、

 みほ「じゃあお姉さんにとって私は何点なんですか?」

 と聞くと、
 姉「100点じゃなくて申し訳ない、97点です」

 えええ~(汗)?100点じゃなくて、申し訳ない??そんなに高得点なの?何をもって97点なのか??〔中略〕どのあたりが高得点なのかと聞いた所、

 姉「なんていうか日々のみほさんがいいのよね~」
 と言うのです。

 日々のみほさんとは、日中、機嫌がものすごく悪かったのに、夜は元気になってものすごく話しかけてくるとか、お肌は日々のお手入れが大事なんですよと熱弁を振るうのに、大袋のポテトチップスをボリボリ食べ、夜、顔にニキビの薬を塗りたくっていたりとか、YouTubeカッコウの托卵、羊の毛刈りの動画について熱弁を振るうみほなどがいいそうです。
 ちなみにマイナス3点は何ですかと聞くと、姉は掃除が苦手で、心の準備が必要なので前日に明日掃除すると予告してほしいのに言ってくれない。朝、どちらが先にお風呂に入るのかを1か月ごとの交代制にしたいのに、守ってくれない。一緒に仕事で外出する時、黙って出ないで「出ますよ」と一言ほしい、だそうです。なんか前もって系ばっかりですけども。


(雰囲気の似てる二人だけど、エリコさんは淋しがり屋で、みほさんは一人の時間が大事だけど時々近づいてくるタイプ。エリコさんにとってみほさんは97点ってのは…すごい…!このエピソードを、褒められている側のみほさんが書いているのがまたかわいい。ちなみにみほさんはお姉さんにかなり低めの点数をつけていた。何点だったかは、ぜひ本書を読んでみてください)

『女ふたり…』の中の、ソヌさんによる以下のエピソードだって、とんでもなく愛。

キム・ハナと暮らしながら私は、少し物欲が減り、いくらか整頓できるようになり、ちょっと気が長くなった(と信じたい)。私がキム・ハナに対して感じているように、こんなに違う私と一緒に暮らしてよかったと思う瞬間が、キム・ハナにもときどき訪れるといいなと思う。果肉がぎっしり詰まった丸っこい陸宝(ユッポ)とか、甘酸っぱい香りのバランスがいい竹香(チュクヒャン)とかいう新しいイチゴの品種を知ったり、チキンを一緒に食べる時に私が好きなモモ肉、キム・ハナが好きな手羽先と首の肉を自然に譲り合って食べたりしながら、小さな余白が埋められていくように。

(けそ注:いちごの名前の読み仮名は本文中ではルビが振られてますが、こちらでは便宜上括弧の中に入れてます)


先ほどの「至上の愛って、そんな限定的なものなのか?」って話に戻る。
いや、別に、共同生活をする上で、愛は必須の要件じゃないんだけどさ。
つまり私が言いたいのは、異性愛カップルとか血縁者だけが、至上の仲間ってわけじゃないでしょう?ってこと。

同性のカップルや友達、他の形であっても、「家族(=自分に一番近い人。いざという時に選択をゆだねたい人)」として認められるような世の中になったらいいのになあ。少なくとも、『女ふたり…』の中で描かれていたみたいに、同居人が病気になってしまったとき、一緒に暮らしている人が書類上の家族じゃなくても、相手の病状について説明を聞いたり書類にサインできるような仕組みを早く取り入れてほしい!(日本では、まだそういうことが一部の病院でしかできないようなので)

〔前略〕結婚せずに一緒に暮らすカップルだけでなく、結婚していても離婚や死別によってひとりになった中高年も増えるだろうし、私と同居人のように同性の友達同士で互いを頼りにしながら生きていくこともある。ならば、福祉政策はどんな方向に進むべきか。ゆるやかな形で集まって暮らすパートナーや気の合う誰かと一緒に生活する場合も、互いの保護者の役割を十分に果たせるような方向になればいいと思う。
 生涯を約束し、結婚というしっかりした形で互いを縛る決断を下すのはもちろん美しいことだ。でも、たとえそうでなくても、ひとりの人生のある時期に互いの面倒を見て支え合える関係性があるとしたら、それはまた十分に温かいことではないか。個人が喜んで誰かの福祉になるためには、法と制度の助けが必要だ。以前とは違う多様な形の家族が、より強く結ばれ、もっと健康になれば、その集合体である社会の幸福度も高まるだろう。

(『女ふたり、暮らしています』のソヌさん執筆パートより引用)


※個人的には、異性愛を基本とした結婚制度の中身は、ジェンダー役割的に「美しい」だけでは語れないよなー(ていうか「美しい」によって覆い隠されてるものが多いよなー)という気持ちをいろいろ勉強する中で持つようになったのだけど…その話はまたいつか。

(『女ふたり…』の中にも「結婚しなくていちばんよかったのは、誰かの嫁として生きなくてもいいということだ」「何より恐ろしいのは、嫁の役目を自ら進んで一生懸命やってしまいそうな気質が私にも内在しているということだ」「関係における義務は負わないけれど、わが子のそばにいてくれてありがとうと言ってもらえるそんなポジションなら、誰かの嫁になることもどれだけ気楽でいいことか」等とある。「料理上手な同居人のお母さんは、私の好きなお惣菜を作って送ってくれる。私は、わざわざ訪ねていったり、親孝行のための旅行を計画する必要もなく、『おいしかったです!』とひとこと言えばいい」とも。めちゃくちゃ、わかる!!結婚した「嫁」は気配りできて家事やケアなど自主的にするのが当然で、できてないとマイナス評価になっちゃうって状況が、私はとんでもなく嫌なんだよーー!(「いつか」書きたいのは、そういう話です!))

ーー

ちなみに、『阿佐ヶ谷姉妹ののほほん二人暮らし』にはお二人の書かれた恋愛小説も掲載されていて、どちらの内容もお人柄が出ていて面白かったのだけれど、私が特に好きだったのは姉のエリコさんの小説。温泉で働いている元高校教師の女性(蕗子さん)が、同僚の湯守の男性(年雄さん)と少しずつ心の距離を縮めていく話。蕗子さんがまかないの豆腐をおいしそうに食べていたのを覚えていた年雄さんが、彼女が好きそうな豆腐を見かけて「ちょっとだけおすそ分けしたい」って思うとか、好意の描写が上品なんすよ…。

番組内の企画で書かれた小説ということで、たぶんその番組内でもうエリコさん主演で実写化したんだろうと思うけど、改めて実写化する場合には、年雄さんはハライチの岩井さんでお願いしたい。

(わが恋人は原田泰造氏を推薦していて、その線もありだな…と思った。←恋人は小説を読んでいないんだけど、私が話したあらすじだけでキャスティングが浮かぶという…。私たちは年中実写化キャスティング妄想の話をしている)

(↑しばらくはKindle Unlimitedの対象になっている…はず…!)

 

(↑全部読み終わる頃には、好奇心と行動力、そして知性とユーモアにあふれたお二人へのLOVEがあふれていた。お二人の文化的な楽しい生活と言語センスにわくわく。好きなフレーズが多すぎる本。『阿佐ヶ谷姉妹』本より、社会や制度についてもつっこんだ意見が書かれていて、社会の「ふつう」が窮屈なんじゃーと思っている私には、そこもよかった。同じ窮屈さを感じている人なら、きっと面白く読めるはず。女性の本だとピンクの表紙が使われがちなのが嫌なんだけど、この本はイラストがピリッとしているので好き。素敵なイラスト!お二人が暮らす部屋の写真も、同居している猫たちの写真も、これまたすっごく素敵なんですよ~)

 

<おまけ>
最近私の恋人が、「たまたまYouTubeで見つけたんだけど、結構いい」と言って教えてくれた動画。中国語(?)の動画なんだけど、雰囲気で言いたいことはなんとなくわかるような…。

7人の女性たちが、6人の女友達とそれぞれの家族で、田園地帯にかっこいい家を建てておしゃれでミニマルな共同生活をしているよ!という内容だと思われる。田んぼの真ん中で女友達同士でお茶してるシーンがあるんだけど、そこが映画みたいですっごく素敵。

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