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けそのブログだよ

怒りは、静かに飲み込むなかれ:映画『ソフト/クワイエット』の感想

ソフト/クワイエット [DVD]

 

めっちゃくちゃお久しぶりでございます。けそです。
GW後に東京から北陸地方に引っ越しまして、いろいろありまして現在に至ります。

(同居人のノビオちゃんが運転してくれて車で引っ越したんですが、車内で大カラオケ大会(BGMはYouTube)開いて楽しかったです)

TwitterもXになっちゃうし(でも私はTwitterって呼び続けるよ)、この数か月の間に世の中もいろいろありました…。それらの出来事について思ったことや調べたことなんかも追々記事にできたらいいな…。

さて、引っ越してからもいろんな作品をノビオちゃんと一緒に観ました。

今日シェアするのは、映画『ソフト/クワイエット』についての記事(ネタバレなしの感想&観終えてからノビオちゃんと話し合った内容を会話形式でお届けするネタバレありの感想)です!

 

まずは、あらすじ。

とある郊外の幼稚園に勤める教師エミリーが、「アーリア人団結をめざす娘たち」という白人至上主義のグループを結成する。教会の談話室で行われた第1回の会合に集まったのは、主催者のエミリーを含む6人の女性。多文化主義や多様性が重んじられる現代の風潮に反感を抱き、有色人種や移民を毛嫌いする6人は、日頃の不満や過激な思想を共有して大いに盛り上がる。やがて彼女たちはエミリーの自宅で二次会を行うことにするが、途中立ち寄った食料品店でアジア系の姉妹との激しい口論が勃発。腹の虫が治まらないエミリーらは、悪戯半分で姉妹の家を荒らすことを計画する。しかし、それは取り返しのつかない理不尽でおぞましい犯罪の始まりだった……。

(『ソフト/クワイエット』公式サイトより引用)

 

ここから、ネタバレなしの感想

毎日いろんなことにじりじり削られている白人女性たちがその怒りの矛先をアジア系移民の女性たちに向けて爆発させてしまうという話なのですが、加害者になってしまう白人女性たちの、対等な関係が生活のどこでも築けずぐったりしている状況の描き方も、責任の所在があいまいなまま暴力がエスカレートしていく様子を一切カットせずぶつけてくるところも、かなりつらい映画でした。暴力の本質を描いていると(私は感じた)点で、今まで映画で観た暴力で一番きつかったかもしれない。

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※いきなりちょっと脱線 

「人間が嫌いな人、圧倒的な暴力で人間がめちゃくちゃになるところを観られて逆に癒されるから台湾ホラー映画『哭悲』おすすめだよ~」というようなつぶやきを旧Twitterで読んで、私は人間(とりわけ自分の邪悪さやエゴに向き合う気がない人間)がすごく嫌いだから観たけど、全然はまれなかった。

ふよふよしたSF設定より、現実の人間のちっぽけな(と周りからみられがちな)虚栄心とかプライドとか同調圧力とかおふざけとかから始まってどんどんどんどんでっかくなっちゃって止まらなくなっちゃう暴力のほうがずっとずっと怖いから。

『哭悲』の監督はたぶんあんまりそういう、人間のどうしようもないくそさから始まった莫大な暴力性に直面したことがないんだろうな、いいなあずるいな!と思って、鑑賞後の私はますますイライラした(あるいは、監督は監督の一番怖いと思っているものを映画のテーマにできなかったのかもしれない。そういう逃げがあるくせに「過激」みたいな宣伝文句で売られている作品に出合ってしまうと私はすごくむかつく。嘘じゃん、と思う←すべてのクリエイターに「自分の魂を削って、一番見たくないものを直視して作品をつくれ」と言いたいのではなく(作品と自分自身との間に適切な距離をとれない人、どのようなケアが自分に必要かわかっていない人、がこれをすると周りの人に加害的になっちゃったりクリエイター自身がさらに深く傷ついたりして危険なので…)、現実から目を逸らしてつくった作品なら、その旨明らかにして宣伝しろよ看板に偽りありだろ、と思うということです)。

『ソフト/クワイエット』には、『哭悲』の消化不良を一気にぜーんぶ飲み込んでくれる本物の人間の怖さがあって、めちゃくちゃ怖かったけど「世界にはちゃんと、現実の人間のほうがずっと怖いってことから逃げないで作品をつくろうとしてくれてる人がいるんだ!」と安心できたので『ソフト/クワイエット』を観たほうがずっと癒されました。長すぎる脱線終わり。『ソフト/クワイエット』の話に戻ります

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じっくり長回しのカメラが、観客の顔を押さえつけて「ここから一秒も目を逸らすな」と、その場を目撃させるような効果を生んでいます。

 

監督のベス・デ・アラウージョさんは「母親は中国系アメリカ人で、父親はブラジル出身」という方で、自身も小学生のときに(おそらく)有色人種であることを理由に担任教師から差別される経験があったことについてインタビューで語っています。
しかし同じインタビューの中で「この作品に出ている白人至上主義者を“邪悪な存在”とひとことで片付けてしまうなど、キャラクターをある側面だけで見るのはとても危険なこと」とも語っておられ、それぞれのキャラクターを「ある人にとってはきっと優しく好ましい人物なんだろうなあ…」と観客に思わせる、繊細な演技・セリフ・演出が魅力の作品でもありました。その、「『優しく好ましい』人物であることをどの人の前でも演じ続けること」が本当は無理だってことが、こういう暴力の爆発につながっていたりもするのだけれども。

この映画に出てくる女性たちの世界には「自分の本音を全部飲み込んでにっこりほほえむ」or「言いたいこと言いたい相手がいないところで、こっそり愚痴としてその人に直してほしいこととかその人に対して不満に思ってることを第三者に言う」or「罵詈雑言と身体的暴力で屈服させる」以外のコミュニケーションがほとんどないことが問題だと思う。「互いを尊重しながら、直接本人と話し合う」ってカードがなぜか存在しない。そしてこういう状況は、日本も例外じゃない…っていうかあちこちで見るよね?という…!


Twitterの感想?でも観たけど、一番フェミニズムが届いてほしい人に届いていないということが本当にきつかったです。

アーリア人団結をめざす娘たち」が敵視しているフェミニズム偽装フェミニズムであってフェミニズムじゃないから。

(前にnoteで書いていたとき、偽装フェミニズムまわりについてイベントを通じて学んだ内容についてちょっと触れた↓)

note.com

フェミニズム」や「フェミニスト」という言葉が変なイメージを付加されたまま広がっちゃって(「アスペ」って言葉も、近い現象が起きちゃった言葉ですよね)、フェミニストを名乗る人の中でもその間違ったイメージを信じ込んでる人もいたりして、どこから言葉を取り戻していけばいいんだろうと途方に暮れますが…自分にできる範囲で勉強して、その内容を発信していくしかないんだよな、と日々思っています。


(そして、フェミニズムの補助線を引かないでこの映画を観ると、ただ「白人至上主義者、ほんとひどい!みんなくたばればいいのに!胸糞映画だった!」と思って終わっちゃいそうな気がします。白人「女性」の団体だということは、この作品の核になる部分なので)

ーー

以下は、観た人向け(あるいはネタバレ気にしない人向け)の、ノビオちゃんと感想を語り合うパート

 

ノビオちゃん(以下、ノビ)

主人公のエミリーについて印象的だったことがいろいろあって。

ソフト(柔らかい)でクワイエット(静か)であれ、それが素晴らしい女性なのだ、っていうメッセージを繰り返し繰り返し刷り込まれてきた人なんだなあと感じる描写がいろいろあったよね。

エミリーは、「落ち着いて」とか「深呼吸して」みたいなことを周りの人にたびたび言うんだけど、それは、エミリーがこういうことを何度も言われてきたからなんだと思う。

怒るべきところで怒ることが許されないっていうのは、精神衛生によくない。

 

(ノビオちゃんがみつけた英語版?の本作ポスター。怒りを飲み込み続けた結果、毒ガスみたいに言いたいことがエミリーの体を蝕んでいるイメージに見える)

 

こういうバージョンもあるよ↓

 

けそ:

すべての怒りにアンガーマネジメントを適用するのは危険だよね。

時と場合によるだろうよ、という…。

 

ノビ

アンとリリーのアジア系姉妹に対してエミリーが思いつく精いっぱいの暴力が、「マヨネーズをトリートメントみたいに髪に塗ること」だったのも、もちろん暴力なんだけど、彼女に向けられてきたものを象徴していると思って悲しかった。

 

けそ:

私はあのシーン、エミリー自身が「理想的な白人美女たるもの、いつでもまっすぐサラサラヘアーであれ!」って呪いにかけられているからこそした行為だったのかもなと思って観ていたよ。

 

ノビ

こんな緊迫した状況でも、犬を閉じ込めたままにはしておけないし、出て行く前は家の鍵も閉めるし…って人なんだよね、エミリー…。

あと印象的だったのが、暗闇の中ヘッドライトを点けて一人で歩くエミリー、という描写。女神様っぽい表象だな、と。「アーリア人団結をめざす娘たち」のほかのメンバーに「バービーみたい」とも言われていたけど、そういう女神というか、クイーン・ビーなポジションを周りに期待されてきて、なんとかそれをこなそうとしてきた人なんだよね、エミリーは。

 

けそ:

でも、家父長制を内面化してもいるから、夫みたいな男性とか、もっと「えらい人」から許可を得ないと自分から意見しちゃいけないという矛盾も抱えている。

 

ノビ

平等な関係っていうのがほとんど存在しなくて、誰かが誰かを見下ろす・見下すシーンばっかりこの映画には出てくる。

 

けそ:

構図的にもそうだし、会話もそうだった。キャラクターが自分で「自分はこの人より下だ」と思ったり「劣っている」と思っているんだろうと感じる内容が多かった。

優劣を競う要素は、パートナーの有無や子供の人数であったり、容姿であったり、学歴であったり…。

 

ノビ

そうそう。で、唯一リラックスしている雰囲気で隣に並んで話すのは、冒頭のエミリーと教え子の男の子の会話シーン。それでも、うっすら男の子のほうが自分より「上」だと思っている雰囲気があった。相手はこんなに小さい男の子なのに、「男性」としてカウントしてる。移民とおぼしき掃除係の人物に「生徒たちが帰ってから掃除するように」って伝えたいのに自分では言えなくて、男の子に言わせようとしている。女性から意見してはいけない、ってここでも思っている感じがあった。

 

けそ:

同級生のアンの家を時々こっそり見に行っていたとエミリーは夫に話していたけど、たぶんエミリーから見てアンは、「良妻賢母であれ」という呪いから自由に生きている人のように感じられて、実は羨ましかったからなんだろうな、と思う。

こういう作品を見ると「女の敵は女」と言い出す人がいるけど、こういう価値観を内面化させてる原因は、第一に家父長制的な社会なのよ!!!

 

ノビ

エミリーの夫のクレイグも、ほんとうはそうしたくないのに家父長制社会のメンバーになっちゃっている人だと思った。

エミリーたちのアン宅襲撃を止めようとして失敗するシーン、「(もしこれを止めるなら)これからずっと、男らしくないって思うからね!」みたいなことをエミリーに言われて黙っちゃうの、印象的だった。「男らしくない」って妻に思われることが、クレイグにとってそんなに脅威なの?と思って。

 

この映画に出てくる大人の男たち(クレッグ&神父)が、二人ともキャップをかぶっているのも気になった。

 

けそ:

相手の目を見ないようにしてる?

 

ノビ

たぶんそう。そして二人とも、ことなかれ主義。

神父は「ここで面倒を起こさないでくれ」というようなことを言ってエミリーたちを間接的に追い出したけど、これって「ここじゃなかったらやってもいい」に聞こえるよね。

 

けそ:

クレッグも、アン宅襲撃をやめろって最初はエミリーに言ってたのに、謝りながら結局襲撃を手助けしちゃってるし。

 

ノビ

誰もほんとうにこれをしたいわけじゃなさそうなのに、なんならみんなやめたいと思っているのに、それでも事態が進行していくのが不気味だった。

 

あと気になったのが、「なんで前半、エミリーがパイを手に持って運んでいくシーンがやたら長いのか?何か保冷バッグとかに入れるでもなく、目的地までは結構遠いのになんでわざわざ手で持っていくのか?」ってこと。どんどん森の中に入っていく赤ずきんちゃんみたいなシーンだった。どう思う?

 

けそ:

あのパイは、自分が有色人種じゃなくて「白人」なんだっていう誇りの象徴だと思って私は観ていたよ。これを落としたら何もなくなっちゃうような気がするから、一生懸命大事に守って、高く掲げながら持っているんだろうと。

 

本当は、別に何もすごくなくても、何も成し遂げてなくても人は存在していいはず、それが人権があるってことじゃんね。(←映画『バービー』まだ観てないですが、このあたりの話も出ているらしいですな。期待!)

でも、今の社会では全然そう思えない。社会や周りの人は、いろんなプレッシャーをかけてくる。映画に出てくる女性たちは、「まっとうな女」としてはこれを持ってなきゃいけない、これをしなきゃいけないって圧力を(自分では言語化できなくても)感じながら生きている。でも、何か達成したら、次にまたしなきゃいけないものが見えてくる。自分よりも持ってる人、「優れている人」を目指さなきゃいけないと思えちゃって終わりがない。自分を「女として合格」と思えてる人は、たぶんアン宅襲撃メンバーの中には一人もいないと思う。

でも、「白人である」ってことはさらなる高みを目指さなくても失わないものだから。彼女たちにとって、それだけで自分は「優れている」と、自分は「合格」だと思える宝物だから、それをよすがにしているんだと思う。


どんな人も、ただ生きてるだけでえらいし大丈夫、って思える社会にならないと、こういう加害はなくならないと思うんだよね…。

 

(このシーンは、映画のパンフレットの表紙イメージにも使われている。本編よりもさらに「迷い込んでる」感ましましのデザイン)↓

 

 

(このパイ↓についても、「中身が血や臓物みたいに見えるように演出してるよね~」とノビオ氏は言っておりました。全然おいしそうじゃなくって悲しいんだよなあ…)