螘サンバカーニバル

けそのブログだよ

コンテンツ月記(令和四年、葉月)

以前、バンコクで撮った写真。外国の公衆電話を見るのが結構好きだ。

読んだもの、観たものを、書きなぐりのメモで記録します。完読できてないものも、書きたいことがあったらメモします。すでに長めのレビューを書いてるものや書く予定のものは、基本的に除いてます(…と言いながら、ここで書いてる感想も割と長いんだけど)。


例によって、つい最近読んだり観たものの感想から、しばらく寝かせた感想まで、幅があります。先月分書けなかったのでいろいろたまっているよ…。


==評価基準(特に記載したいときだけ)==
\(^o^)/ 乾杯。愛。最高の毒なり薬。
φ(..) 特別賞(今後思い出すだろうシーン有等)
==ココカラ==


今月のお品書き↓

 

 

映画

プロミシング・ヤング・ウーマン

第93回アカデミー賞脚本賞を受賞した作品。メインの曲をはじめ、音楽の使い方がべらぼうにかっこいい映画だった。フェミニストは、ぎりぎり苦しい気持ちにも、スカッとした気持ちにもなる映画だと思う(フェミニストじゃない人にはこの映画のメッセージはたぶん届かないと思う)。

ちなみに作品タイトルの『プロミシング・ヤング・ウーマン』っていうのは「前途有望な女性」という意味で、「前途有望な青年の未来を奪うのか?」って脅し文句で性暴力被害者が黙らされ、性暴力加害者が軽い反省ですぐに解放されちゃう事態が横行していることへの皮肉になっている。

あらすじ↓

30歳を目前にしたキャシー(キャリー・マリガン)は、ある事件によって医大を中退し、今やカフェの店員として平凡な毎日を送っている。その一方、夜ごとバーで泥酔したフリをして、お持ち帰りオトコたちに裁きを下していた。ある日、大学時代のクラスメートで現在は小児科医となったライアン(ボー・バーナム)がカフェを訪れる。この偶然の再会こそが、キャシーに恋ごころを目覚めさせ、同時に地獄のような悪夢へと連れ戻すことになる……。

Amazonの『プロミシング・ヤング・ウーマン』紹介ページより引用)

 

この作品は特にネタバレしないほうがいい作品だと思うのでほとんど何にも触れられないんだけど…キャシーという女性が最高だった。最高だっただけに、「あの事件」のときから、キャシーが訪ねた夜(からの朝)のときまで、「全然変わってない」人物たちがまああああ憎かった!!!一方で、この人物たちみたいな「傍観者」になっちゃいそうなときの勇気の出し方を、もっとわかりやすく教えてくれるものが必要なのかもしれない、って思った…(今回のケースとは違う場面だけど、私自身もこれまで何度も「傍観者」だったことがあるから…)。

 

フェミニズムの映画だけど、敵を「男性だけ」にしない姿勢も、すごく良かった。
今途中まで読みかけて止まってる本(↓)を読み終えたら、また感想が変わるかもしれないな。

(性暴力にさらされているのは少女だけじゃない、少年もだ、「男性は恵まれている」という主張だけでは解決できない問題がそこにある、っていうことについて書いている本。どんなジェンダーアイデンティティの人に対する性暴力もそうで、その原動力は性欲というより「支配欲」なんだろうなって思いながら読んでる…)

 

プロミシング…の話に戻ると、全体としてすごく惜しかった、と感じた。アカデミー賞(作品賞)を獲るには、あともう一歩何か、残るところが必要だったのかなと思う。

 

Coda あいのうた \(^o^)/

第94回アカデミー賞作品賞を受賞した作品。これは作品賞獲りますわ!!!!納得の一本だった。素晴らしいストーリー、役者陣、音楽、風景。

物語の山と谷がきちんとコントロールされてて、一番大きな山に心が載ってる表現(たとえば音楽とか)のシーンが来る作品でだいたい私はぼろぼろ泣いてしまうんだけど、今回も完全に心を持っていかれたよ…。

 

あらすじ↓

 

豊かな自然に恵まれた海の町で暮らす高校生のルビーは、両親と兄の4人家族の中で一人だけ耳が聴こえる。陽気で優しい家族のために、ルビーは幼い頃から“通訳”となり、家業の漁業も毎日欠かさず手伝っていた。新学期、秘かに憧れるクラスメイトのマイルズと同じ合唱クラブを選択するルビー。すると、顧問の先生がルビーの歌の才能に気づき、都会の名門音楽大学の受験を強く勧める。だが、ルビーの歌声が聞こえない両親は娘の才能を信じられず、家業の方が大事だと大反対。悩んだルビーは夢よりも家族の助けを続けることを選ぶと決めるが、思いがけない方法で娘の才能に気づいた父は、意外な決意をし・・・。

(『Coda あいのうた』公式サイトより引用)

ちなみにCoda(コーダ)とは、Children Of Deaf Adultsの頭文字をとった言葉です。

 

本作が話題になったときあちこちで宣伝されていたからご存じの方も多いと思うけど、この映画はろう者(聴覚障害を持つ人)の役をろう者の役者さんが演じていることがまず、画期的だったそう(それが「画期的」なのが終わってんなとも思うけど…)。『ドライブ・マイ・カー』では聴者(聴こえる人)がろう者の役を演じてて、それを観た手話を使う人の中に「手話が死んでいる感じがした」と感想を書いている人がいたけど、この映画を観るとその意味がわかると思う。

 

あと、障害を持つキャラクターの出てくる作品で、私がす--ごく大事だと思ってるのは、そのキャラクターが「とびきりの善人」としても「とびきりの悪人」としても描かれないこと。この作品に出てくるろう者のキャラクターたちは、チャーミングなところもうざい(笑)ところも両方持ち合わせてる人たちで、ちゃんと多面性を持って生きている人として描かれていた。セリフもそうで、綺麗ごとだけじゃない、「汚い言葉を手話で言う」シーンがあるところがよかったと思う。

 

ただ、この作品の課題…というより、障害者のキャラクターを擁する物語の今後の課題については、少し思うところがある。

「障害を持つ家族」と暮らす「障害を持たない家族」の話、後者が「完全に縁を切る」か「楽しいこともつらいこともあるけど、やっぱり楽しいのほうが上回るなと思って一緒にいることを選ぶ」のどちらかのパターンしか出てこないことが気になってる。
障害を持つ人が出てくる話で今後もっと描かれないといけないだろうなと思うテーマは、「障害を持つ家族と仲良くできない(あるいは、離れたいと思っている)、障害を持たない家族」のこと。特に「きょうだい児」(障害を持つきょうだいがいる子供のことをこう呼ぶ、大人になったその人は「きょうだい者」と呼ぶ)のこと。身体障害か精神・知的障害かで(そしてどんな障害なのかで)またいろいろ事情は違うと思うんだけど…。障害を持つ家族に対してずっと暗い気持ちを持ってる人の話も、いつかちゃんと取り上げないといけないと思う、ないことにしちゃいけないと思う。私は機能不全家族で育ったからなおのこと、広く福祉が行き届いて、それぞれの人が自分の選択で(「家族の問題は家族がなんとかしなきゃいけない」って罪悪感・責任感からじゃなく)、自分の家族とどれくらいかかわるかを決められるようになるといいなって思う。

 

最後に、関連作品として、日本のコーダについて描いているこの小説もとってもおすすめ↓。

日本の手話ならではの事情や、障害は「環境」がつくってるんだなってこと(ろう者にはろう者のコミュニティがあって、その中ではハードルは発生してない)、ろう者と裁判のことなどについて知ることができる。

(ただ、ろう者とかコーダの描き方は素晴らしかったと思うんだけど(←当事者の人が読んだら違うことを思うかもしれないのだけど…)、書き手の人のジェンダー観の古さはすっごく気になった!料理は女性がつくるものっていうのを前提としてる価値観とか、女性の人物の見た目だけ詳細に描写してることとか、女性の登場人物だけ下の名前で書かれてることとかね…こういうことでうげって思わされなくなる世界はいつか来るのか…?(来いよ))

マンガ

すみれ先生は料理したくない 1~4巻 φ(..) 

主人公は、幼稚園でピアノの先生をしている白雪すみれ、30歳。

周囲からは、美しく優しく上品で、きっと家でも料理など完璧にこなしているのだろう…と思われている女性だ。

 

しかし…すみれには秘密があった…。

こう見えて彼女は、壊滅的に料理ができない人だったのだ…!

職場のみんなにこの秘密がばれることだけは避けなければならぬ、と、毎話すみれ先生は料理に挑戦する。しかしそのたび料理の理不尽さ(とかめんどくささとか)に翻弄され、踏みにじられ、苦々しい思いをピアノにぶつけて、高らかに歌い上げる。たとえば、こんな感じに。f:id:arisam_queso:20220824224447j:image

(↑『すみれ先生は料理したくない』より引用)
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(↑『すみれ先生は料理したくない』より引用)
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(↑『すみれ先生は料理したくない』より引用)


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(↑『すみれ先生は料理したくない』より引用)


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(↑『すみれ先生は料理したくない』より引用)

 

このすみれ先生作詞・作曲の曲の疾走感が、毎回清々しくおかしくて、でも切実で、読んでいるとどんどんすみれ先生のことが好きになってくる。

(わかる…わかるよ…じゃがいも剥くのまじめんどくさいよな…!)

すみれ先生はこんなに料理が嫌いなのに、めげずに挑戦し続けてすごいんですよ…。

 

今の時代、みんなが笑える作品をつくるのってすごく難しいけど(難しいってことはそれだけ無視されない人が増えたってことで、絶対前の時代に戻るべきじゃないんだけど)、「めんどくさいよね!」「難しいよね!!」って思いをコメディの形で共有する方法があるのか!と目から鱗が落ちる作品だった。

「料理できない」ってことは、(特に、日本で生きている女性は「女たるもの、普通は料理できるべき」的価値観をしょっちゅう刷り込まれて生きているから)地味に自尊心を削ってくることでもあるから、これだけ軽やかだと救われるなーと思った。
(同じテーマで言えば、漫画家・瀧波ユカリさんのこの文章もとってもおすすめ)

 

ただ、(特に)女の人はいつかは結婚するってことを前提にしてるようなジェンダー観とか、ギャルのステレオタイプの描き方とかは好きじゃなかった。そういうのを修正してくれたら、ドラマ化にとっても向いてるマンガだと思う。誰もにとって他人事じゃないテーマで、すごく笑えて、明るい気持ちになれる物語だから。

(他のマンガだったら、ご都合主義すぎる設定などにも私はつっこみを入れると思うんだけど、このマンガはなんだかそれでもいいか…と思えるゆるさである笑)

 

私が読んだ時点ではKindle Unlimitedに3巻まで入っていたよ~。

料理が苦手な方、めんどくさいって思ってる方、レシピで簡単って言われてること全然簡単じゃねえ!って思ったことある方、に特におすすめの作品です。

(表紙に1巻とは書いてないんだけど、これ↑が実質1巻になっています(たしか好評だったから2巻以降も発売されることになったという話だった気がする))

 

崩れゆく絆 φ(..) 

普段、日本以外だと欧米(欧は特に西欧)のものばっかり観たり聞いたりしちゃうなあ…、もっと中南米やアフリカやアジアや中東のことを知らなければなあ…と思って読んだ、アフリカ(ナイジェリア)の小説。

地名などは架空のものが使われていたりもしたが、ナイジェリアの人々が(もっと細かく言うとイボ人が)キリスト教とどのように出会ってどのようにコミュニティが変わっていったか、その邂逅前後を、「アフリカ人」の視点から丁寧に描いている作品。特に邂逅前の、イボ人文化の描写が詳細でとても面白かった。

 

あらすじ↓

古くからの呪術や習慣が根づく大地で、黙々と畑を耕し、獰猛に戦い、一代で名声と財産を築いた男オコンクウォ。しかし彼の誇りと、村の人々の生活を蝕み始めたのは、凶作でも戦争でもなく、新しい宗教の形で忍び寄る欧州の植民地支配だった。

Amazon作品紹介ページより引用)


まったく知らなかった文化に触れることはこんなにも新鮮なのか…とドキドキしながら読んだ(えっ、じゃあ読めないかも…と思ったあなた。丁寧な解説が入っているので大丈夫、読みやすいです)。

例えば、人間たちだけでは解決できないもめごとが起こった際、オコンクウォが住む土地では「エグウグウ」という精霊たちのグループが裁きを下すことになっているんだけど(「精霊たち」は実際にはこの地の有力者の男たちが仮面をかぶって扮しているんだけど、その正体を探ることはタブーになっている)、この審判の始まり方とか、めちゃくちゃかっこいい。

 

 エグウグウが全員着席し、体にたくさんついた大小の鈴が鳴りやむと、悪霊の森が向かいに控える二組の集団に呼びかけた。

「ウゾウルの肉体よ、挨拶いたす」精霊はきまって人間を「肉体」と呼ぶ。ウゾウルは服従のしるしに、かがんで右の手を地面についた。
「ご先祖さま、わたしの手は地に触れております」とこのように男は述べた。
「ウゾウルの肉体よ、わたしのことがわかるかね」精霊がたずねる。
「わかるはずございません、ご先祖さま。われわれには知ることができません」

(『崩れゆく絆』より引用)


人間を肉体って呼んじゃうんですからね!!!!(興奮)

 

比喩とか諺に使われるものとかにも、文化がすごく反映されるよなーとゆるめ言語オタクとしては興味深くチェックしたわけなんだけど、「砂を一粒放っても地面に落ちていく隙間がないほど、すでにたくさんの人が集まっていた」とか、「太陽はひざまずいている者より立っている者を先に照らす」とかって表現に、異文化を感じてときめいた。

 

ストーリーの話に移りますと、『ルポ 誰が国語力を殺すのか 』という本(のディベート?の話)の中で、「差別っていうのは必ずしも数が多いほうが数が少ないほうにするものではない。少ないほうが、多いほうを恐れるあまりすること、そして力を持っちゃうことがあるよね」というような話が出てきたんだけど、まさにそれを地で行くような話でしたわい…。

 

でも、もちろん一方的に伝統文化を踏みにじる(この本の中で言えば、キリスト教徒たちがイボ人たちの文化を「野蛮」と断定し、否定すること)のはよろしくないのだけど、その「伝統文化」に生きづらさを感じる人たちにとって、新しい文化は希望になることもあって、そういう面も描かれていることがフェアだなと思ったよ。

 

たとえば、主人公のオコンクウォ、妻にも子供にも暴言吐きまくり殴りまくり、戦争では人殺しまくり、悲しい気持ちなんかの弱い感情は決して外に出しちゃいけないと思ってるTHE・マッチョ。このコミュニティはそれこそが男だとされてるんだけど、こうじゃないと男はいかん!って、生まれたときから決まってるコミュニティで歩んでいくこと、人によっては(というか結構な数の人にとって)死ぬより苦しいと思うよ…。そう、これは「有害な男らしさ」の本でもあります。キリスト教徒がやってこなくても、戦争より音楽が好きなオコンクウォのお父さんみたいな人も伸び伸び生きられるようなコミュニティになれたら、よかったと思うんだけどなあ…(と、私の価値観のものさしで「べき論」を述べることがもうよくないんだろうけども…)。